クラゲドーナツ

クラゲドーナツは虚無の味

思い出の紐

 ライブに行ってから1週間近く経った。あの日の快楽を求めて何度かアルバムを再生するが、1番良かったのは1週間前のあのライブなので最高の曲を聞きながら最高の瞬間に思いを馳せている。
 2時間の輝きが日増しに輝いているように思う。こうして思い出は補正されていくのだということを実感している。
 思い出はどうして補正されるのか。補正というのは正しくないように思う。良かった思い出はより良い思い出へ。悪かった思い出はより悪い思い出へ。強調されていくというのが正しいのではないだろうか。
 風景写真のように全体に焦点が合っていた場面もいつしかどんどん一部にズームしていって、焦点が一点に絞られていく。
 全体に散らばっていた要素への意識が細かな一部に集中していく。細部を忘れつつも細部に注目していく。
 時として重要でない部分に注目していることもあり、一層喜びを、あるいは苦しみを深めることになる。
 思い出を取り込む状態は良いも悪いも同じような方法で行われている。いずれはあのライブも一部だけが僕の中に残り、それがより鮮明な形で現れてくるのかもしれない。
 思い出の不思議なところは集中した一点だけが記憶の中にあるのではなく、あらゆる記憶と紐付いて眠っていることだ。それは町だったり音だったりする。紐に引っかかると失われたはずの思い出がまた色をつけて新たな記憶のように姿を現す。フラッシュバック。
 良い思い出なら喜んで受け入れるのだが悪い思い出でこれが多く困る。悪い思い出のフラッシュバックの頻度はどうして多いのだろう。
 良いも悪いもこれまでそれほど大きな違いはないと思いたいが、やはり悪いことのほうが多かったのだろうか。それとも悪い思い出には良い思い出よりも引っかかりが多いのか。
 紐が多く付いている状態。あちこちで足を引っ掛けて反応してしまう。怪盗ものでイメージされる赤外線みたいに。
 繰り返し思い出される記憶はどんどん紐が絡まって余計に思い出される。この紐を取り除くには、思い出しても気にしないことだろうか。気にしなくなれば思い出としての価値が失われ紐も消えていくのかもしれない。
 いい思い出を思い出した時に積極的に良かったと感じ、もっと思い出したいと身体を促せば脳内でも変化が起きるのだろうか。
 記憶は繰り返しの中で覚えていく。覚えたいことは毎日覚えるといい。まあそこまで過去にすがるのも不健康なように思うけれど。
 とりあえずもうしばらくライブのことを思い出しながらその曲を聞くことは、健全な行為であろうと思いやっていたい。