クラゲドーナツ

クラゲドーナツは虚無の味

習慣

 4日ほど空いた。
 書く前に寝てしまったり、さすがに書く余裕あるなら寝るわと思う日程だった。
 そもそも義務ではないので書くも書かないも自由である。
 2ヶ月ほど書いてきて3日と空いたことはなかったが、4日空くと意外にこのまま書かない生活に戻れてしまうと感じた。
 継続してきたからこのまま継続できる身体になったのだと思い込んでいた。まだまだ呼吸と同様に扱うのは難しい。
 はたしてどうすれば習慣の中に入り込むのだろう。常日頃していることは習慣になるものだと思っていたがそういうわけでもない。となると習慣にするには別の要件が関わっているということになる。
 継続することも要件の一つだろうが、あくまで一つでしかなく、まだ他にも必要な条件がある。
 習慣でやっていることを考える。
 生きることに必要なこと。しかしこれは生きることに必要だからという条件なのでここでは関係ないだろう。
 なんとなくTwitterを見るとか、YouTubeで好きなチャンネルは更新されると見るとか、そういうレベルの習慣を考える。これらは娯楽としての快楽のレベルが高い気がする。刺激が強いゆえ、脳が味わおうとしてしまうといえる。
 習慣化できている人とできていない人がいるものの方が参考になるのではないか。
 例えば筋トレ。毎日できている人もいれば何度も始める人がいる。僕は後者だ。
 どうして筋トレは毎日できないのだろうか。
 実感がわくまでに時間がかかるからというのが一つの理由だろう。楽しさを実感する前に苦しさや飽きが上回る。気がつけばやることを忘れてしまい、次の日、また次の日と時間が経っていく。
 楽しい実感を得られることが長く続けるコツなのかもしれない。書くだけで楽しいというのはこの2ヶ月で感じ取れたように思う。新しい次の段階が要求されているのではないだろうか。
 筋肉がついている実感。書き筋が発達している実感がもう少し得られるとさらに習慣化していくのかもしれない。
 そのためには自分の中でもう少し練習法のようなものが得られればいいのだが、それは一方で書くことを義務で行うようになるということで、根本が否定されるような気がする。
 楽しむために楽しまない義務を発生させるような本末転倒の気がある。
 さて困った。はたしてどうするのが正しいのか。
 そもそも新しい習慣を作るのがこれほど難しく考えなければならないのか? ひとまず2ヶ月ほぼ毎日更新していたのも一つの習慣のように思えるが。
 正解のない問答は常に砂をすくってはこぼすようだ。受刑者が意味のない穴をほってまた埋めているのと同様の徒労がある。
 とりあえずはまた書ける日に書いて、ささいなことでも成長が実感できれば御の字程度に考えていようと思う。