クラゲドーナツ

クラゲドーナツは虚無の味

「天気の子」を見た人が読んでくれるといいなという話

「天気の子」を見た感想を述べたいと思います。「天気の子」を見てない人はとりあえず見てくれ。。。

 

「天気の子」の感想というか個人的に一番インパクトがあった意見として

 これは00年代のセカイ系で、実はもう見たことがあるんじゃないか。。。?

というやつですね(実際にどう書いてあったかは曖昧)。ま〜〜じ?と思って見に行きまして、案の定「うわ!セカイ系未履修でもわかるセカイ系じゃん!」となったんですけども、同時に「これは00年代ではなくて”今”なのでは。。。?」とも思ったんですよ。そのあたりを中心にネタバレも多少含めつつまとめていきます。

 

家族について

家族のもとから離れた帆高と家族のいない陽菜、家族と満足に会えない須賀という色々な「家族」を見せつけていると思いました。本当の家族ってなんなんだろうね、血が繋がっていなくても家族なんじゃないかね、みたいな疑似家族をする場面があった。

あと帆高、陽菜、凪の3人が行ったビジネスには大人が誰も絡んでない。須賀とかがいたにも関わらず全て自分たちだけでやろうとするところ、子どもだけで閉じた世界になろうとしているような雰囲気

 

ラブホ

子どもだけでラブホ入るシーンがある映画は良い映画

 

ラブホ後から世界を変えるまで

帆高が選んだ陽菜を救うという選択に大人になれと迫る須賀。でもそのあと須賀はビルに登る帆高を助けるわけで、つまり大人であるのを一度やめたんだなあと感じた。

一人と多数を天秤にかけた時にエゴで一人を選ぶのが子ども、多数を選ぶのが大人だとしたら年齢を重ねるほど一人を選べない。一人を犠牲にして、一人を選ぶという自分のエゴも犠牲にして多数を選ぶのが大人と呼ばれるものとして描かれる

まあその犠牲にするという行為が大人の多くにわかっていないから訳のわからない理由で逃亡しようとしている子どもとなっている帆高だが、その帆高に耳を貸しもしない存在を大人としているのかな。帆高の行為はエゴそのもので、誰に納得されるものではない。それを止めるのが大人として当然の行為である。須賀はそのエゴを制止する立場から降りて助ける立場になった。大人として対処しようとしていたこれまでをやめて、エゴを貫かんとする。「大人」ではない存在になった。

 

世界変えてから

少年から青年となった帆高。子どもではなくなったから大人なのかというとそうでもないと思う。ここが00年代とは違う”今”なんじゃないかと思う点で、帆高は大人でも子どもでもない存在として描かれているような気がする。

須賀が「少年」でも「名前」でもなく「青年」と呼ぶのはその表れで、セカイ系

世界 対 一人

の構図とくっつく

大人 対 子ども

という形を超えたところが最後のところなんじゃないか。大人になれば自分たちが世界を変えたなんて荒唐無稽信じるわけないが、帆高は明確に(あまりにも明確に)それを否定する。世界を変えたのは自分たちだとはっきり宣言する。帆高は一人を選んだ、陽菜を救ったことにだけ注目せず、世界を変えてしまった罪(?)を自分のものだと認める。力強い言葉でその事実をはっきりと理解して、強く受け止めようとするのが最後のあのシーンと思うわけです。

 

それ以外にもインターネットとか諸々「今」を感じるところ満載で、決して過去への回帰とかではないんじゃないかと思った話でした

 

 

 

蛇足(本編)

「天気の子」見た人は「ウィーアーリトルゾンビーズ」という作品も見て欲しい。本質同じでは……と思うくらいだし、この2作が並んでいる今が「令和」なので

 

 追記

「ウィーアーリトルゾンビーズ」8月31日公式サイトで無料公開されてる!!!!!!!!!