クラゲドーナツ

クラゲドーナツは虚無の味

50

 この日記を書き始めて50回目らしい。これは誇ってもいいのではないだろうか。
 2ヶ月なんとなく縛ってはいないがほぼ毎日書けている。さすがに書くこともなくなってきているがそれでも楽しく書けているんじゃないかと思う。
 あまり誇りというものを持っていない。そもそも記憶力がそれほどよくないので遠いことは忘れていってしまう。もしかしたらこれもすでに書いたことがあるかもしれない。それぐらい忘れやすい。
 あまり自分自身に関心がないのかもしれない。
 これは嘘。自分に関心がなければそもそもこのような内省を促すような日記を始めることはない。
 しかし自分の良かったことや栄光のようなものを見つけるのが苦手というのはあるかもしれない。悪いところのほうが目に付きやすいように、良いところはなかなか気が付きにくい。
 自分の良いところに目を向けすぎて過去の栄光に囚われてしまうことを極端に恐れている。年単位で昔のことを語りいばる人間になりたくないのだ。
 それが細かいことを忘れる要因の1つかもしれない。
 さておき今日は時間の近しい誇りなので、少しだけしたり顔でいても許されるだろうか。
 毎日なんとなく思いついたことで書き始めているので、そろそろ内容が丸かぶりになるかもしれないと思っているが、なんやかんやと少し異なることを書けているんじゃないだろうか。
 漫然と書いているのでそろそろ意識的な書き方をしてみたいとも思う。
 しかしあまり縛りをつけると書きにくくなってしまう。まだもうしばらくは更新することを目標にしておいていいのかもしれない。
 自由というのは難しい。自らやり方を決めて試行錯誤する必要があるとそれが正しいのか判断がつかない状態が長く続く。不自由さが自由な発想を生むように縛りを設けることは悪いことばかりでもない。少なくともこうして考えておくことが重要なように感じる。
 そういえばこの50回で自分は何か成長したのだろうか。
 とりあえず書ける量は増えたように思う。文量が一定以上を保つようになってきていることは感じる。
 思考はどうだろう、以前よりも深まっているのだろうか。前よりも瞬間的に出る言葉は増えたのだろうか。
 コミュニケーション能力は、変わらないだろう。
 書き続けることの効果を実感できている。筋トレをして効果があったときのように。継続していくためのモチベーションになる。
 何回まで書くことを目標とはしないけれどできる限り継続していきたい。
 いつも通り内省的な内容になってしまった。
 自分自身のことを書かないで自分自身のことを書く、村上春樹の『雑文集』に載っていた、自分とカキフライの関係を書くことで自分を書くような、そういう文章を意識的に書くことを目標にでもしようか。
 未来の自分に期待。